江戸幕府を開いた徳川家康は現在、栃木県の日光東照宮に祀られていますが、墓でもあります。
ただし、亡くなったのは駿府城(現静岡県静岡市)で、当初は駿河国(現静岡県中部)にある久能山に葬るようにと遺言をしました。
日光東照宮に墓もあるということは、遺言は守られていないことになりますが、どのような経緯で、日光東照宮に改葬されることになったのか歴史を調べてみました。
徳川家康の遺言とは?
『本光国師日記』によれば、徳川家康は生前に家臣に遺言を残しています。
要約すると、
・遺体は駿河国の久能山に葬ってほしい。
・葬儀は江戸の増上寺で行って、位牌は三河国の大樹寺に納めてほしい。
・一周忌が過ぎたら、下野(現栃木県)の日光山に小さなお堂を作って、自分を祀ってほしい。
ということになります。
何故、下野に自分を祀らせたのか?
源頼朝を尊敬していた徳川家康は源氏の子孫を称して、日本を統一しました。
実際に、徳川家康は源氏の子孫ではなく、官位を得るには源氏を名乗ったほうが手っ取り早かったという時代背景があります。
征夷大将軍も官位の1つであり、日本を統一するためにはこの官位が必要でした。
話を元に戻しますが、徳川家康が尊敬していた源頼朝が生前、信仰していたのが日光山です。
日光山は山岳信仰の山で、関東武士に信仰されていたのですが、戦国時代末期には衰退していたそうです。
天下統一を成し遂げた徳川家康は、日光山を再興しようとしたのではないかという説があります。
他にも、日光という場所が江戸から真北の位置にあり、それが宗教的にとても重要な方角だったので、日光が選ばれたという説もあります。
何故、徳川家康は久能山から日光に改葬されたのか
徳川家康を改葬したのは、2代目将軍の秀忠です。
秀忠は平和になったとはいえ、まだ2代目なので、江戸幕府の基礎を固め、支配力を確立する必要がありました。
遺言とは少々違っても日光東照宮を作り、祀ることで、家康を神格化し、支配力を高めた方が幕府のためになると判断したからとされています。
墓参りに駿河(静岡県)へ、お参りに日光(栃木県)へと、その都度行くのは神格化を高めるためには不適当という考えもあったのでしょう。
他にも、墓参りとお参りで別々の場所に行くのは手間が掛かるし、経費の問題もあるので、一か所にまとめたほうがいいという合理的な理由があったのかもしれません。
最後に、日光東照宮は現在、世界遺産に登録されており、日本国内外から多くの観光客が訪れています。
天下統一を果たし、江戸時代の基礎を作った徳川家康の神社であると同時に墓でもあるので、日本人なら一度は行ってみたい名所です。