日本史の授業などで必ず取り上げられる「ペリー来航」ですが、その目的や来航場所などの詳細についてご存知でしょうか?
「ペリー」や「黒船」といったワードを耳にする機会はあるかと思いますが、実際にその目的や日本史実に基づいた説明をするとなるとちょっと難しいという方も多いのではないでしょうか。
一般常識とも言える日本史の重大事件のひとつである「ペリー来航」。
そこで今回は「ペリー来航の場所と目的について!」と題して、皆さんにその概要をご紹介したいと思います。
ペリー来航とは?
ペリー来航とは別名「黒船来航」とも呼ばれる日本史実上の重大な事件です。
1853年(嘉永6年)にアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が日本に来航しました。
この海軍を率いていたのが「ペリー」です。
そしてこのペリー来航をきっかけに幕府はアメリカとの「日米和親条約」を締結することになりました。
ペリー来航の目的や場所とは!?時代背景を確認しましょう!
ペリーが来航したのは「浦賀」という場所で、現在の神奈川県に位置します。
当時この浦賀は東京湾の入り口として知られていました。
そもそも何故ペリーは日本を訪れたのでしょうか?
その答えを紐解くカギは、当時の時代背景にあります。
18世紀頃に産業革命が起こり、欧米諸国は劇的な経済発展を遂げました。
これに伴い、製品の販売や原材料の入手という目的からアジアへの進出を行っていました。
特に当時のアメリカは清(現在の中国)との貿易に注力していました。
また、経済拡大の目的から捕鯨を視野に入れるようになりました。
そこで太平洋を横断している「貿易船」や「捕鯨船」の寄港地として日本との条約を締結することを考えました。
当時の日本の状況とは?鎖国を続けていた江戸幕府
当時日本は「鎖国」という政策が採られていました。
「鎖国」とは江戸幕府による対外政策で、日本人が海外へ行くことを禁じたり、キリスト教を禁じたり、外国人の日本への渡航を禁止したものを指します。
江戸幕府は1639年から1853年のペリー来航に至るまで、何と200年余りもの年月に掛けてこの封鎖政策を実施しました。
ペリーが開国を求めた1853年、ペリーはアメリカ合衆国の大統領からの国書を江戸幕府へと手渡し「1年後に再度来航するため、そこで結論を出す」との約束をしました。
翌年1854年に幕府は条約締結を決断し、「日米和親条約」締結に至ったのです。
日米和親条約締結に伴う日本国内の変容
日米和親条約を締結したことにより、200年も続いていた鎖国状態が解かれました。
ペリー来航によって日本国内は近代化が進み、明治の世に向けて文明開化が起こりました。
まとめ
◯ 1853年にペリーが来航した場所は「浦賀」である
○ ペリーが来航して日本に開国を求めた本来の目的は「貿易船や捕鯨船の寄港地」「給油地」として日本の地を活用したかったため
○ これに伴い1854年に「日米和親条約」が締結され、200年余り続いていた鎖国体制が終焉を迎えた
いかがでしたでしょうか?
今回は知っているようで知らない「ペリー来航」の経緯についてご紹介しました。
当時の歴史的背景やその後の日本の文明開化の様相を考えると、「ペリー来航」は日本史実上の重大事件ですね。
ぜひ日本史に興味を持たれた方は、小説や大河ドラマをご覧頂くと面白いですよ。